🌊 【弥富市民向けサマリー】南海トラフ巨大地震:津波・浸水予測と命を守る行動
愛知県が2026年6月に発表した最新の被害予測は、非常に厳しい内容となっています。スーパーコンピュータと最新の物理学を駆使したシミュレーションにより、海抜ゼロメートル地帯である弥富市の「本当の危機」と「生き残るための唯一の正解」が明らかになりました。
1. 弥富市最大のリスク:「津波」の前に「川の水」が襲ってくる
津波が来るまでに逃げればいい、という考えは弥富市では通用しません。地震発生直後、街の景色は一変する可能性があります。
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堤防が瞬時に沈む: 激しい揺れ(最大震度7)により地盤が液状化し、川の堤防が最大75%沈下・決壊すると予測されています。
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津波より先に浸水開始: 弥富市はゼロメートル地帯のため、堤防が壊れた瞬間に市街地より高い場所にある川の水が流れ込みます。伊勢湾からの津波本体が到達するのは「約81分後」ですが、それよりはるかに早い段階で水害が始まります。
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水が引かない(長期湛水): 一度入り込んだ水は、地形の特性上、自然には海へ戻りません。ポンプ場も停電で動かない可能性が高く、最悪の場合、数週間から数ヶ月にわたって街が水に浸かったままになる恐れがあります。
2. なぜ今回の予測はこんなに厳しいのか?
今回のシミュレーションは、行政の「これくらいで済んでほしい」という甘い見通しを一切排除し、最悪の事態(千年に一度の最大クラス)を想定して計算されています。
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最悪のタイミング: 一番潮位が高い「大潮の満潮時」に地震が起きる前提です。
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インフラへの厳しい評価: 「コンクリートの壁は倒れ、土の堤防は沈む」という、最も悲観的ですが起こり得る条件を計算に組み込んでいます。
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見えない危険も存在: シミュレーションには計算しきれない細い水路からの浸水や、流されてくる車や家屋などの「漂流物」の危険は含まれていません。実際には予測以上に被害が拡大する可能性(不確実性)も残されています。
3. インフラ整備の効果:絶望の中の希望
すべてが水没するわけではありません。私たちの街を守る「ハード対策」は確実に効果を上げています。
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日光川水閘門の活躍: 2018年に新しくなった日光川水閘門は、激しい揺れにも耐えられるよう設計されています。この水門が強固な防波堤として機能することで、弥富市を含む広大な地域の浸水面積が大幅に減少することが科学的に証明されました。
4. 命を守る唯一の選択:「遠く」ではなく「高く」へ!
地震後の液状化や障害物だらけの道では、歩くスピードは極端に落ちます。浸水が30cmを超えると、大人でも自力で歩くことは不可能です。
| 避難の考え方 | 従来のイメージ | 弥富市での正解(今後の常識) |
| 避難の方向 | 高台など遠くの安全な場所へ逃げる(水平避難) | 近くの頑丈な建物の2階以上へ逃げる(垂直避難) |
| 避難のタイミング | 津波警報が出てから、津波が来る前に逃げる | 揺れが収まったら「即座に」駆け上がる |
| 避難場所の基準 | 広い公園や指定避難所の体育館 | 鉄筋コンクリート造などの頑丈で高い「津波避難ビル」 |
私たちが今すぐできること
最悪のシミュレーション結果は、「何もしても無駄だ」と諦めるためのものではありません。愛知県の試算でも、全員が素早く避難行動をとることで、犠牲者の数を10分の1にまで減らせることが分かっています。
自宅や職場から一番近い「津波避難ビル」はどこか。暗闇の中、徒歩でそこまで何分でたどり着けるか。今日、そのルートを確認することが、あなたと大切な人の命を繋ぐ最初の一歩です。
南海トラフ巨大地震における弥富市の津波浸水シミュレーション:数理モデルの構築機構、地域特異的リスク、および内在する不確実性の総合的考察
1. 序論:ゼロメートル地帯が内包する複合的災害リスクの地政学的背景
愛知県西部に位置し、木曽川下流の広大なデルタ地帯に広がる弥富市は、市域の大部分が海抜ゼロメートル地帯という極めて平坦かつ低地の地形的特性を有している。
この地理的条件は、平時においては豊かな水資源や農業基盤、さらには港湾・水運の恩恵をもたらす一方で、南海トラフ巨大地震のような大規模広域災害時においては、津波の直撃と地盤沈下・液状化に伴う河川氾濫という複合的な水害リスクを内包する致命的な脆弱性となっている。
2026年6月、愛知県は12年ぶりとなる「愛知県南海トラフ地震被害予測調査結果」を公表した。
この最新の推計によれば、県内の死者数は最悪のシナリオにおいて最大約2万7,000人に達し、建物の全壊・焼失は約36万7,000棟、直接的経済被害は約19.4兆円、さらに最大698万人が断水を経験し、県内の89%が停電するという壊滅的な被害が予測されている。
国(中央防災会議)が推計した愛知県内の死者数約1万9,000人を8,000人も上回るこの結果は、愛知県が県内の極めて脆弱な地盤特性とインフラの被災状況を独自かつ厳格にシミュレーションに組み込んだことに起因している。
とりわけ弥富市をはじめとする海部地域のゼロメートル地帯においては、地震の激しい揺れによる防潮堤や河川堤防の沈下、そしてそれに続く伊勢湾からの津波の襲来により、想像を絶する浸水被害が発生することが示唆されている。
本報告書は、こうした甚大な被害予測を導き出した「津波浸水シミュレーション」が、いかなる流体力学的・数理的仕組みに基づいて構築されているのかを解き明かす。
同時に、弥富市という特異な地形条件における具体的なシミュレーション結果(津波到達時間、浸水高、被害規模)を詳細に分析し、これらの予測モデルが抱える科学的・技術的な不確実性や、今後の減災政策における社会的・実務的課題について網羅的かつ多角的に考察する。
2. 津波浸水シミュレーションの理論的・数理的基盤
巨大津波の発生から外洋での伝播、そして浅海域を経て陸域へと遡上・浸水する一連のダイナミクスをコンピュータ上で再現するシミュレーションは、流体力学の基礎方程式に基づく高度な数値解析によって実行される。
愛知県における浸水想定の計算機構は、内閣府「南海トラフの巨大地震モデル検討会」が策定した基準に準拠しつつ、地域の詳細な地形データを反映させたものである。
2.1 支配方程式:非線形長波理論の適用メカニズム
津波の伝播および浸水計算において主軸となる理論的枠組みは「長波(浅水)理論」である。
一般に波浪は、水深 と波長 の比率によってその性質が分類される。
津波は波長が数十キロメートルから数百キロメートルに達するため、水深が数千メートルの深海であっても「相対的に極めて浅い水域を伝播する波」として振る舞う。
すなわち、 および水深に対する波高 の比 がともに微小であるという近似が成り立つ領域においては、水中の圧力は静水圧分布に等しくなり、水平方向の流速は海底から水面までの鉛直方向に一様であると仮定できる。
しかしながら、津波が水深の浅い沿岸域や陸域に伝播してくると、水深に対する津波水位(波高)の割合が相対的に大きくなり、無視できなくなる。
この段階において、波の挙動には強い「非線形性」が発現する。
非線形性が支配的になると、水位が高い(水深が深い)部分ほど波面の進行速度が速くなるという物理現象が生じる。
これにより、波の後方が前方に追いつく形となり、前面が切り立った急勾配の波、すなわち「段波(だんぱ)」を形成しながら陸地へ押し寄せる。
このため、浅海域および陸上での複雑な津波伝播や遡上の解析には、線形近似を排した「非線形長波理論(Non-linear Shallow Water Equations)」が適用される。
連続の式(質量の保存)と運動方程式(運動量の保存)を海底から水面まで鉛直方向に積分して得られるこの非線形方程式系を用いることで、複雑な海底地形や陸上地形における波の屈折、回折、浅水変形、および摩擦抵抗を伴う遡上過程を数値的に評価することが可能となる。
2.2 数値計算手法:Leap-Frog差分法と計算格子の最適化
基礎方程式をコンピュータ上で解くためには、連続的な空間と時間を格子(メッシュ)状に分割し、離散化して計算する「有限差分法」が用いられる。
津波計算において広く採用されている時間積分法が「Leap-Frog(蛙飛び)差分法」である。
この手法は、連続の式による「水位()」の空間的・時間的更新と、運動方程式による「流量(:水平流速の鉛直積分値)」の更新を、計算グリッド上において空間的に半ピッチずらし、かつ時間的にも半ステップずつ交互に行うものである。
これにより、計算の安定性(クーラン・フリードリヒス・レーヴィ条件の充足)と計算精度の両立が図られている。
計算領域のメッシュサイズ(空間解像度)の設定は、予測精度と計算機負荷のトレードオフを決定づける。
外洋などの波源域では地形の変化が緩慢であるため2,430mといった極めて粗いメッシュが設定されるが、沿岸部や陸域に近づくにつれて段階的に細分化され、最終的な浸水域の計算には最小10mメッシュという高解像度が適用されている。
この10mメッシュにより、海岸線付近での微細な地形の変化や、幅10m以上の河川における津波の遡上、さらには主要な防潮堤や堤防の存在がシミュレーション結果に直接的に反映される仕組みとなっている。
2.3 境界条件と初期潮位の厳格な設定
津波浸水予測を最も過酷な条件下で評価し、社会インフラの限界性能を検証するためには、初期条件としての潮位設定が極めて重要となる。
愛知県のシミュレーションにおいては、計算領域ごとに「朔望平均満潮位(大潮の満潮時の平均水位)」が設定されている。
具体的には、伊勢湾湾奥部を含む計算領域において、東京湾平均海面を基準とする T.P. +1.2m から +1.27m が初期潮位として与えられている。これは、地震の発生タイミングが最も悪く、潮位が高い時間帯に巨大津波が来襲するというワーストケースシナリオを前提に置くことで、想定外の被害(ブラックスワン事象)を防ぐための安全側のマージンを意図的に確保するものである。
3. 構造物崩壊と地盤変動のモデル化:2つの想定シナリオと「前提条件」
津波の物理的な流体伝播に加え、地震発生直後に人間社会が構築したインフラストラクチャー(防潮堤、河川堤防、水門など)がどのような挙動を示すかを定義することが、被害予測の決定的な要素となる。
3.1 政策目的を異にする2つの想定モデル
愛知県の津波浸水想定は、単一のシナリオに基づくものではなく、主たる政策目的を異にする以下の2つのモデルを並行してシミュレーション・評価している。
この二元的なアプローチは、防潮堤の高さを無制限に引き上げる(ハード面の過大投資)ことを避けつつ、住民の命を守る避難計画(ソフト面)を完全に機能させるための現実的な最適解を模索するものである。
3.2 堤防の脆弱性評価と「75%沈下」ルールのメカニズム
津波シミュレーションにおいて被害範囲と浸水深を決定的に左右する最大の要因が、地震動に伴う構造物の被災条件である。
「理論上最大想定モデル(津波ケース①)」による浸水予測では、構造物に対して極めて悲観的かつ厳格な崩壊条件が設定されている。
シミュレーション内において、構造物は材質と立地に応じて以下のように機能喪失のプロセスを辿るとプログラムされている。
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コンクリート構造物の倒壊:地震の強い揺れ(震度7クラス)の発生と同時に、剛体であるコンクリート構造物は倒壊し、即座に津波を防ぐ機能を喪失するものとして計算される。
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盛土構造物(土堰堤)の沈下と越流破壊:土で構築された河川堤防等の盛土構造物は、地震発生と同時に液状化や側方流動の影響を受け、高さが「75%沈下」するものと設定される。さらに、沈下して低くなった堤防に津波が到達し、水が堤防の頂部を越流した瞬間に、浸食によって堤防は完全に破壊(破堤)されるものとして計算に組み込まれている。
この「一部の堤防が最大75%沈下し、越流と同時に破壊される」というモデリングは、濃尾平野の軟弱地盤における液状化リスクを強烈に反映したものである。
前述の通り、2026年の愛知県独自の被害予測が国の予測を大幅に上回った理由は、国が「地震後も堤防が一定程度は粘り強く機能する」というある種の楽観的評価を残したのに対し、愛知県がこの厳格な堤防沈下・即時決壊条件を採用した点にある。
これは、最悪の事態において行政の想定の甘さが住民の命を奪うことへの強い反省と危機感の表れであると言える。
4. 弥富市における被害予測:ゼロメートル地帯の特異的挙動
愛知県西端、木曽川下流に位置する弥富市は、市域の広範な地域が砂や泥を主とした未固結な沖積層で形成されており、南部の海岸一帯は干拓や埋立地である。
この地質学的特性により、地震時には極めて高い液状化危険度が予測されている。
この脆弱な地盤特性と海抜ゼロメートルという地形が交錯することで、シミュレーションは特異かつ絶望的な水害の進行プロセスを描き出している。
4.1 津波到達時間と最大津波高の定量的評価
シミュレーションから導き出された弥富市における津波の到達時間および最大津波高は、採用するモデルによって以下の通り予測されている。
ここで防災上極めて重要な意味を持つのが「30cm」という水位の基準である。
流体力学的な検証において、津波の浸水深が0.3m(30cm)に達すると、急激な流速と水圧によって健康な成人であっても自力で歩行・避難行動をとることが物理的に不可能になる。
さらに浸水深が1mを超えた場合、津波に巻き込まれた人命の致死率はほぼ100%に達し、2m以上では木造家屋の半数が全壊、3m以上では建物の多くが流失・全壊する。
弥富市の被害想定では、南部の一部地域を除く居住地のほとんどが「1m以上〜4m未満」、最大で2m〜5mの浸水深に達すると予測されている。
これは、避難の遅延が直ちに街全体の壊滅と大量の人的被害に結びつくことを意味する。
実際に、弥富市において想定される人的被害(死者約1,200人)のうち、約9割にあたる約1,100人が「津波および浸水」を直接的な死因とすると推定されており、さらに建物被害においても全壊・焼失想定の約7,900棟のうち、約5,400棟が津波・浸水による全壊とされている。
4.2 第二次的な脅威:「津波到達前の河川氾濫」と「長期湛水」のメカニズム
弥富市のシミュレーション結果から導き出される最も恐るべき知見は、外洋からの津波の第一波が到達する「81分後」よりもはるかに早い段階で、深刻な水害が始まるという時間的メカニズムである。
激しい地震動(弥富市では最大震度7が想定される)が発生した瞬間、前述の軟弱な砂泥層において広範な液状化が発生し、海岸や河川沿いの盛土堤防は自重を支えきれずに瞬時に沈下・亀裂・決壊を引き起こす。ゼロメートル地帯であるため、日常的に市街地よりも高い位置を流れている河川水や海水は、堤防が機能を失った瞬間から、重力に従って堤内(市街地)へと直接流入し始める。
つまり、伊勢湾を遡上してくる津波本体が到達するのを待たずして、堤防沿いの地域では「地震発生直後のわずかな時間」で河川氾濫による浸水被害が開始され、住民に残された避難可能時間を著しく奪い去ることがシミュレーションによって明示されているのである。
地震発生から12時間以内には南部の臨港地区を除き市域のほぼ全域が30cm以上の浸水域に覆われる。
さらに、ゼロメートル地帯の宿命的課題として「浸水継続時間の著しい長期化」が挙げられる。
一度市街地に大量に流入した水は、地盤高が海面より低いため自然に海へ戻ることができず、長期間にわたって湛水状態(水に浸かったままの状態)が継続する。
一般社団法人中部地域づくり協会の推計によれば、市中部の広範囲で24〜72時間の浸水が続くほか、最悪のケースでは市域の広範で30日以上、鍋田干拓地などの特定の地域では120日以上もの長期間にわたって水が引かない事態が想定されている。
これは単なる初期避難の問題にとどまらず、救助活動の物理的阻害、避難所運営の困難化、感染症の蔓延、そして地域産業基盤への回復不能な打撃を意味している。
5. ハードウェアによる多重防御の進化と限界:日光川水閘門の事例
絶望的とも言える被害想定の中にあって、行政のハードウェア投資(インフラ整備)がシミュレーション結果の改善、すなわち浸水面積の縮小に直接的に寄与している実例も存在する。
2014年公表の調査と比較して、2026年公表の最新シミュレーションでは、愛知県全域の浸水面積(浸水深1cm以上)が約26,500haから約11,600haへと劇的に減少している。
この減災効果に極めて大きく寄与したインフラの筆頭が、弥富市と飛島村の境界付近、日光川河口部に位置する「日光川水閘門(すいこうもん)」の耐震改築である。
昭和34年(1959年)に襲来した伊勢湾台風は、愛知県全域で死者・行方不明者3,260名、家屋全壊・流出2万3,000戸以上という甚大な被害をもたらし、ゼロメートル地帯の脆弱性を歴史に刻み込んだ。この未曾有の災害を教訓として、昭和37年(1962年)に旧日光川水閘門が建設され、外水位が高い時は門を閉じ、低い時は自然排水するという24時間体制の調整機能により流域を守り続けてきた。
しかし、半世紀以上が経過し、施設の老朽化に加え、広域地盤沈下の影響による流下能力の不足、そして何より南海トラフ巨大地震クラスの揺れに対する耐震性の欠如が致命的な課題となっていた。
これを受け、愛知県は平成21年(2009年)より改築工事を開始し、平成30年(2018年)3月に新たな日光川水閘門を完成・供用開始させた。
この新水閘門は、大規模地震の揺れにも耐えうるU型独立形式の強固な躯体構造を持ち、地震発生時にも確実に水門機能が維持されるよう設計されている。
このインフラの更新がシミュレーションモデルに組み込まれた結果、津波の遡上や高潮の侵入を河口という水際で強固にブロックし、弥富市や飛島村、さらには名古屋市西部を含む広大なゼロメートル地帯への無秩序な浸水を大きく食い止める防波堤として機能することが数理的に実証されたのである。
6. 予測モデルに内在する不確実性と技術的課題
津波浸水シミュレーションは最新の流体力学とスーパーコンピュータを駆使した極めて精緻な計算に基づくが、自然界の物理現象の複雑さ、および入力データと計算手法の限界から、無視できない「不確実性」と「技術的限界」を内包している。
政策決定者および地域住民は、ハザードマップ等の図面を絶対不変の事実としてではなく、一定の誤差を含む「ひとつの可能性」として相対化して解釈しなければならない。
6.1 波源断層モデルと初期条件の不確実性
まず、シミュレーションの出発点となる南海トラフ巨大地震の「波源(断層)モデル」そのものに決定的な不確実性が存在する。
長大な震源域において、どのセグメントが同時に破壊されるか、あるいは東側と西側で時間差を置いて連動破壊されるか(半割れケース)には無数の組み合わせが存在する。
また、海溝軸付近で津波を巨大化させる要因となる「分岐断層(スプレー断層)」のすべり量や傾斜角などの特性化についても、海底下の詳細な地質構造が完全に解明されているわけではないため、想定には限界がある。
計算上はこれらをカバーするため、考え得る複数ケース(愛知県の場合は検討された11ケース中、影響の大きい5ケース等)をシミュレーションし、各地点の最大値を重ね合わせてエンベロープ(包絡線)として抽出する安全側のアプローチをとっているが、自然界が想定を上回る挙動を示す可能性(未知の波源特性)を完全に排除することはできない。
6.2 サブグリッドスケールの地形・インフラ表現の限界
メッシュサイズに関する限界も大きな不確実性の要因である。愛知県の陸域シミュレーションでは高解像度の10mメッシュを採用しているが、それでも表現しきれない微細な地形や構造物(サブグリッドスケールの要素)が存在する。
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小規模河川・用水路網の除外:幅10m以上の河川については津波の遡上を計算しているが、幅10m未満の中小河川や農業用水路については計算対象から除外されている。弥富市のような農業地域において、網の目状に走る無数の小水路が津波や氾濫水の伝播経路(バイパス)となる可能性を考えると、実際の浸水域や到達時間はシミュレーションよりもさらに複雑化・迅速化する恐れがある。
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地下空間や管渠の非考慮:シミュレーションは地表面(DEMデータに基づく標高)を基準に行われるため、地下鉄、地下街、下水道管渠などへの水の流入や、そこを通じた地下からの噴出・浸水拡大は計算上考慮されていない。都市部において下水道施設を介した内水氾濫は頻発する現象であり、下水道施設のみでは詳細な浸水状況を再現できないというモデル化の課題が存在する。
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微地形と構造物の動的変化:実際の街並みの凹凸(建物の密集度合い、道路の形状)が津波の流速や水圧をどう局所的に変化させるかまでは完全に再現できない。また、津波来襲中に建物が破壊されて流出する過程や、防潮堤が「滑り台状」に変形・傾斜することで波が這い上がりやすくなる効果など、構造物の動的な形状変化をリアルタイムで追従計算することは極めて困難である。
6.3 漂流物のモデル化の難如
津波被害を甚大化させる要因として、破壊された家屋の残骸、船舶、車両、コンテナ、倒木などが波に乗って内陸に突進する「漂流物」の問題がある。
漂流物が建築物に激突することによる破壊力(運動エネルギー)の増大や、橋梁・水門に漂流物が詰まることによるせき止め(それに伴う局所的な異常水位上昇)は、実際の津波災害において頻発する。
しかし、多種多様な漂流物の不規則な形状、力学的衝突過程、および流木等の三次元的な軌跡を流体力学モデルと連成して広域シミュレーションに直接組み込むことは、現在の計算機資源と数理モデリング技術の限界から事実上困難とされている。
したがって、ハザードマップに示される浸水深や流速は、漂流物の影響が加味されていない「純粋な流体の挙動」にとどまっていることに留意すべきである。
6.4 ポンプ排水能力と機能継続の現実性
ゼロメートル地帯における長期湛水を防ぐための生命線となるのが、排水機場やポンプ設備の稼働である。
洪水浸水想定区域図作成マニュアル等では、シミュレーションにおいて排水ポンプの稼働を考慮する場合、燃料補給体制や操作員のアクセス路確保を踏まえた「排水機能の継続性」に十分留意することが求められている。
しかし、最悪のケースでは愛知県内で最大89%の世帯が停電し、携帯電話基地局の81%が停波、さらには最大19兆円規模の経済被害が発生しインフラが完全に麻痺すると予測されている。
震度7の激震と広域液状化の条件下において、ポンプ場が本来の排水能力(例:日光川河口ポンプの100m³/sなど)を維持できるかは極めて不透明である。
電源のブラックアウトに加え、操作員の避難・被災、アクセス道路の陥没などが重なれば、人為的な排水活動は長期にわたって機能不全に陥り、想定をはるかに超える水没被害がもたらされるリスクが残存している。
7. 避難計画(ソフト対策)への展開と「社会的妥当性」
こうした絶望的なシミュレーション結果を前にして、政策立案者は科学的知見をどのように社会の減災行動に変換すべきかという課題に直面する。
7.1 「社会的妥当性」と「科学的妥当性」の相克
防災・地震学の専門家からは、シミュレーションの前提となる「千年に一度の最大クラスの地震・津波」という概念の科学的妥当性について、懸念の声も上がっている。
科学的な予測の限界を超えた領域において、政府や行政が「命を守るため」という政策的要請に基づいて極端な最悪シナリオを提示することは、科学的確率よりも「社会的妥当性」を優先した結果であると言える。
このアプローチは住民の危機意識を強力に喚起する上で極めて有効である。
しかし一方で、弥富市全域が水没するといったあまりにも巨大な被害予測が提示されることで、住民が「何をしても助からない」という運命論的諦観(ファタリズム)に陥り、かえって防災行動を阻害する危険性を孕んでいる。
行政はシミュレーション結果を開示するにとどまらず、個人の行動がいかに生存率を劇的に引き上げるかを定量的に示す必要がある。
実際に2026年の愛知県の試算では、全県で最大2万7,000人に達する死者想定も、住民の避難意識が高まり早期避難を徹底することで、死者数を2,900人(約10分の1)まで抑制可能であるというシミュレーション結果も同時に提示されており、個人の行動変容の重要性が裏付けられている。
7.2 水平避難の破綻と「垂直避難」へのパラダイムシフト
弥富市のように、液状化に伴う地盤沈下により津波到達前に河川が氾濫する特異なエリアにおいては、地震動が収まった後に水平方向(高台など遠方の安全地帯)へ徒歩や車で移動するという従来の避難モデルは完全に破綻する。
市が策定する避難計画において、避難開始時間は「昼5分、深夜10分」と設定されているが、地震後の液状化や障害物を考慮した避難歩行速度は、健常者で時速1.38km(秒速0.38m)、高齢者で時速0.69km(秒速0.19m)と極めて低く見積もられている。
これは、避難準備に時間を要する夜間に高齢者が徒歩で逃げた場合、到達まで81分あってもわずか1km未満しか進めないことを意味する。
しかも、前述の通り津波より先に河川からの浸水が始まり、水深が30cmを超えればその歩行すら不可能になる。
このシミュレーションから導き出される論理的かつ唯一の帰結は、遠方への「水平避難」を断念し、近隣の堅牢な建物の高層階へ直ちに逃げ込む「垂直避難(津波避難ビル等への避難)」への徹底したシフトである。
弥富市は津波避難ビルの指定基準として、鉄筋コンクリート造(RC造)または鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)であり、想定浸水深3.3mを上回る高さ(実質的に2階建て屋上以上)を有し、新耐震基準を満たしていることを厳格に定めている。
こうした堅牢な中高層建築物のネットワーク化と、地域住民への周知徹底こそが、シミュレーションが示す致命的な時間的制約を克服する唯一の手段である。
8. 結論
愛知県・弥富市を対象とした南海トラフ巨大地震の津波浸水シミュレーションは、非線形長波方程式と精緻な差分法グリッドに基づく高度な流体力学モデルを基盤としている。
特に「震度7の激震と液状化による盛土堤防の75%沈下と即時越流破堤」という極めて厳格かつ悲観的な物理的仮定を組み込んだことで、津波の第一波到達(81分後)を待たずに河川水が流入し、市街地の大部分が急速に水没・長期湛水するというゼロメートル地帯特有の脆弱性が数理的に明確に浮き彫りにされた。
日光川水閘門の耐震改築に代表されるハードウェアの強靭化は、確実な減災効果をもたらしシミュレーション上の浸水面積を半減させることに成功したが、断層モデルの未知性、微細水路や地下インフラの除外、漂流物の非考慮、そして非常時におけるポンプ稼働の不確実性といった技術的限界が依然として残存している。
したがって、シミュレーションが提示する被害予測の数値はあくまで防災計画の「基準」であり、自然の威力の「上限」を保証するものではない。
弥富市のような過酷な地形条件下においては、シミュレーションが示す事象の進行速度(津波前の河川氾濫)を不可避の前提とし、発災直後の迅速かつ確実な「垂直避難」を核とする地域社会全体のソフト対策の徹底が、想定される甚大な人的被害を最小化するための最も合理的かつ不可欠なアプローチである。
1. 序論:ゼロメートル地帯が内包する複合的災害リスクの地政学的背景
愛知県西部に位置し、木曽川下流の広大なデルタ地帯に広がる弥富市は、市域の大部分が海抜ゼロメートル地帯という極めて平坦かつ低地の地形的特性を有している。この地理的条件は、平時においては豊かな水資源や農業基盤、さらには港湾・水運の恩恵をもたらす一方で、南海トラフ巨大地震のような大規模広域災害時においては、津波の直撃と地盤沈下・液状化に伴う河川氾濫という複合的な水害リスクを内包する致命的な脆弱性となっている。
2026年6月、愛知県は12年ぶりとなる「愛知県南海トラフ地震被害予測調査結果」を公表した。この最新の推計によれば、県内の死者数は最悪のシナリオにおいて最大約2万7,000人に達し、建物の全壊・焼失は約36万7,000棟、直接的経済被害は約19.4兆円、さらに最大698万人が断水を経験し、県内の89%が停電するという壊滅的な被害が予測されている。国(中央防災会議)が推計した愛知県内の死者数約1万9,000人を8,000人も上回るこの結果は、愛知県が県内の極めて脆弱な地盤特性とインフラの被災状況を独自かつ厳格にシミュレーションに組み込んだことに起因している。
とりわけ弥富市をはじめとする海部地域のゼロメートル地帯においては、地震の激しい揺れによる防潮堤や河川堤防の沈下、そしてそれに続く伊勢湾からの津波の襲来により、想像を絶する浸水被害が発生することが示唆されている。本報告書は、こうした甚大な被害予測を導き出した「津波浸水シミュレーション」が、いかなる流体力学的・数理的仕組みに基づいて構築されているのかを解き明かす。同時に、弥富市という特異な地形条件における具体的なシミュレーション結果(津波到達時間、浸水高、被害規模)を詳細に分析し、これらの予測モデルが抱える科学的・技術的な不確実性や、今後の減災政策における社会的・実務的課題について網羅的かつ多角的に考察する。
2. 津波浸水シミュレーションの理論的・数理的基盤
巨大津波の発生から外洋での伝播、そして浅海域を経て陸域へと遡上・浸水する一連のダイナミクスをコンピュータ上で再現するシミュレーションは、流体力学の基礎方程式に基づく高度な数値解析によって実行される。愛知県における浸水想定の計算機構は、内閣府「南海トラフの巨大地震モデル検討会」が策定した基準に準拠しつつ、地域の詳細な地形データを反映させたものである。
2.1 支配方程式:非線形長波理論の適用メカニズム
津波の伝播および浸水計算において主軸となる理論的枠組みは「長波(浅水)理論」である。一般に波浪は、水深 と波長 の比率によってその性質が分類される。津波は波長が数十キロメートルから数百キロメートルに達するため、水深が数千メートルの深海であっても「相対的に極めて浅い水域を伝播する波」として振る舞う。すなわち、 および水深に対する波高 の比 がともに微小であるという近似が成り立つ領域においては、水中の圧力は静水圧分布に等しくなり、水平方向の流速は海底から水面までの鉛直方向に一様であると仮定できる。
しかしながら、津波が水深の浅い沿岸域や陸域に伝播してくると、水深に対する津波水位(波高)の割合が相対的に大きくなり、無視できなくなる。この段階において、波の挙動には強い「非線形性」が発現する。非線形性が支配的になると、水位が高い(水深が深い)部分ほど波面の進行速度が速くなるという物理現象が生じる。これにより、波の後方が前方に追いつく形となり、前面が切り立った急勾配の波、すなわち「段波(だんぱ)」を形成しながら陸地へ押し寄せる。
このため、浅海域および陸上での複雑な津波伝播や遡上の解析には、線形近似を排した「非線形長波理論(Non-linear Shallow Water Equations)」が適用される。連続の式(質量の保存)と運動方程式(運動量の保存)を海底から水面まで鉛直方向に積分して得られるこの非線形方程式系を用いることで、複雑な海底地形や陸上地形における波の屈折、回折、浅水変形、および摩擦抵抗を伴う遡上過程を数値的に評価することが可能となる。
2.2 数値計算手法:Leap-Frog差分法と計算格子の最適化
基礎方程式をコンピュータ上で解くためには、連続的な空間と時間を格子(メッシュ)状に分割し、離散化して計算する「有限差分法」が用いられる。津波計算において広く採用されている時間積分法が「Leap-Frog(蛙飛び)差分法」である。
この手法は、連続の式による「水位()」の空間的・時間的更新と、運動方程式による「流量(:水平流速の鉛直積分値)」の更新を、計算グリッド上において空間的に半ピッチずらし、かつ時間的にも半ステップずつ交互に行うものである。これにより、計算の安定性(クーラン・フリードリヒス・レーヴィ条件の充足)と計算精度の両立が図られている。
計算領域のメッシュサイズ(空間解像度)の設定は、予測精度と計算機負荷のトレードオフを決定づける。外洋などの波源域では地形の変化が緩慢であるため2,430mといった極めて粗いメッシュが設定されるが、沿岸部や陸域に近づくにつれて段階的に細分化され、最終的な浸水域の計算には最小10mメッシュという高解像度が適用されている。この10mメッシュにより、海岸線付近での微細な地形の変化や、幅10m以上の河川における津波の遡上、さらには主要な防潮堤や堤防の存在がシミュレーション結果に直接的に反映される仕組みとなっている。
2.3 境界条件と初期潮位の厳格な設定
津波浸水予測を最も過酷な条件下で評価し、社会インフラの限界性能を検証するためには、初期条件としての潮位設定が極めて重要となる。愛知県のシミュレーションにおいては、計算領域ごとに「朔望平均満潮位(大潮の満潮時の平均水位)」が設定されている。
具体的には、伊勢湾湾奥部を含む計算領域において、東京湾平均海面を基準とする T.P. +1.2m から +1.27m が初期潮位として与えられている。これは、地震の発生タイミングが最も悪く、潮位が高い時間帯に巨大津波が来襲するというワーストケースシナリオを前提に置くことで、想定外の被害(ブラックスワン事象)を防ぐための安全側のマージンを意図的に確保するものである。
3. 構造物崩壊と地盤変動のモデル化:2つの想定シナリオと「前提条件」
津波の物理的な流体伝播に加え、地震発生直後に人間社会が構築したインフラストラクチャー(防潮堤、河川堤防、水門など)がどのような挙動を示すかを定義することが、被害予測の決定的な要素となる。
3.1 政策目的を異にする2つの想定モデル
愛知県の津波浸水想定は、単一のシナリオに基づくものではなく、主たる政策目的を異にする以下の2つのモデルを並行してシミュレーション・評価している。この二元的なアプローチは、防潮堤の高さを無制限に引き上げる(ハード面の過大投資)ことを避けつつ、住民の命を守る避難計画(ソフト面)を完全に機能させるための現実的な最適解を模索するものである。
3.2 堤防の脆弱性評価と「75%沈下」ルールのメカニズム
津波シミュレーションにおいて被害範囲と浸水深を決定的に左右する最大の要因が、地震動に伴う構造物の被災条件である。「理論上最大想定モデル(津波ケース①)」による浸水予測では、構造物に対して極めて悲観的かつ厳格な崩壊条件が設定されている。
シミュレーション内において、構造物は材質と立地に応じて以下のように機能喪失のプロセスを辿るとプログラムされている。
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コンクリート構造物の倒壊:地震の強い揺れ(震度7クラス)の発生と同時に、剛体であるコンクリート構造物は倒壊し、即座に津波を防ぐ機能を喪失するものとして計算される。
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盛土構造物(土堰堤)の沈下と越流破壊:土で構築された河川堤防等の盛土構造物は、地震発生と同時に液状化や側方流動の影響を受け、高さが「75%沈下」するものと設定される。さらに、沈下して低くなった堤防に津波が到達し、水が堤防の頂部を越流した瞬間に、浸食によって堤防は完全に破壊(破堤)されるものとして計算に組み込まれている。
この「一部の堤防が最大75%沈下し、越流と同時に破壊される」というモデリングは、濃尾平野の軟弱地盤における液状化リスクを強烈に反映したものである。前述の通り、2026年の愛知県独自の被害予測が国の予測を大幅に上回った理由は、国が「地震後も堤防が一定程度は粘り強く機能する」というある種の楽観的評価を残したのに対し、愛知県がこの厳格な堤防沈下・即時決壊条件を採用した点にある。これは、最悪の事態において行政の想定の甘さが住民の命を奪うことへの強い反省と危機感の表れであると言える。
4. 弥富市における被害予測:ゼロメートル地帯の特異的挙動
愛知県西端、木曽川下流に位置する弥富市は、市域の広範な地域が砂や泥を主とした未固結な沖積層で形成されており、南部の海岸一帯は干拓や埋立地である。この地質学的特性により、地震時には極めて高い液状化危険度が予測されている。この脆弱な地盤特性と海抜ゼロメートルという地形が交錯することで、シミュレーションは特異かつ絶望的な水害の進行プロセスを描き出している。
4.1 津波到達時間と最大津波高の定量的評価
シミュレーションから導き出された弥富市における津波の到達時間および最大津波高は、採用するモデルによって以下の通り予測されている。
ここで防災上極めて重要な意味を持つのが「30cm」という水位の基準である。流体力学的な検証において、津波の浸水深が0.3m(30cm)に達すると、急激な流速と水圧によって健康な成人であっても自力で歩行・避難行動をとることが物理的に不可能になる。さらに浸水深が1mを超えた場合、津波に巻き込まれた人命の致死率はほぼ100%に達し、2m以上では木造家屋の半数が全壊、3m以上では建物の多くが流失・全壊する。
弥富市の被害想定では、南部の一部地域を除く居住地のほとんどが「1m以上〜4m未満」、最大で2m〜5mの浸水深に達すると予測されている。これは、避難の遅延が直ちに街全体の壊滅と大量の人的被害に結びつくことを意味する。実際に、弥富市において想定される人的被害(死者約1,200人)のうち、約9割にあたる約1,100人が「津波および浸水」を直接的な死因とすると推定されており、さらに建物被害においても全壊・焼失想定の約7,900棟のうち、約5,400棟が津波・浸水による全壊とされている。
4.2 第二次的な脅威:「津波到達前の河川氾濫」と「長期湛水」のメカニズム
弥富市のシミュレーション結果から導き出される最も恐るべき知見は、外洋からの津波の第一波が到達する「81分後」よりもはるかに早い段階で、深刻な水害が始まるという時間的メカニズムである。
激しい地震動(弥富市では最大震度7が想定される)が発生した瞬間、前述の軟弱な砂泥層において広範な液状化が発生し、海岸や河川沿いの盛土堤防は自重を支えきれずに瞬時に沈下・亀裂・決壊を引き起こす。ゼロメートル地帯であるため、日常的に市街地よりも高い位置を流れている河川水や海水は、堤防が機能を失った瞬間から、重力に従って堤内(市街地)へと直接流入し始める。 つまり、伊勢湾を遡上してくる津波本体が到達するのを待たずして、堤防沿いの地域では「地震発生直後のわずかな時間」で河川氾濫による浸水被害が開始され、住民に残された避難可能時間を著しく奪い去ることがシミュレーションによって明示されているのである。地震発生から12時間以内には南部の臨港地区を除き市域のほぼ全域が30cm以上の浸水域に覆われる。
さらに、ゼロメートル地帯の宿命的課題として「浸水継続時間の著しい長期化」が挙げられる。一度市街地に大量に流入した水は、地盤高が海面より低いため自然に海へ戻ることができず、長期間にわたって湛水状態(水に浸かったままの状態)が継続する。一般社団法人中部地域づくり協会の推計によれば、市中部の広範囲で24〜72時間の浸水が続くほか、最悪のケースでは市域の広範で30日以上、鍋田干拓地などの特定の地域では120日以上もの長期間にわたって水が引かない事態が想定されている。これは単なる初期避難の問題にとどまらず、救助活動の物理的阻害、避難所運営の困難化、感染症の蔓延、そして地域産業基盤への回復不能な打撃を意味している。
5. ハードウェアによる多重防御の進化と限界:日光川水閘門の事例
絶望的とも言える被害想定の中にあって、行政のハードウェア投資(インフラ整備)がシミュレーション結果の改善、すなわち浸水面積の縮小に直接的に寄与している実例も存在する。2014年公表の調査と比較して、2026年公表の最新シミュレーションでは、愛知県全域の浸水面積(浸水深1cm以上)が約26,500haから約11,600haへと劇的に減少している。
この減災効果に極めて大きく寄与したインフラの筆頭が、弥富市と飛島村の境界付近、日光川河口部に位置する「日光川水閘門(すいこうもん)」の耐震改築である。 昭和34年(1959年)に襲来した伊勢湾台風は、愛知県全域で死者・行方不明者3,260名、家屋全壊・流出2万3,000戸以上という甚大な被害をもたらし、ゼロメートル地帯の脆弱性を歴史に刻み込んだ。この未曾有の災害を教訓として、昭和37年(1962年)に旧日光川水閘門が建設され、外水位が高い時は門を閉じ、低い時は自然排水するという24時間体制の調整機能により流域を守り続けてきた。 しかし、半世紀以上が経過し、施設の老朽化に加え、広域地盤沈下の影響による流下能力の不足、そして何より南海トラフ巨大地震クラスの揺れに対する耐震性の欠如が致命的な課題となっていた。
これを受け、愛知県は平成21年(2009年)より改築工事を開始し、平成30年(2018年)3月に新たな日光川水閘門を完成・供用開始させた。この新水閘門は、大規模地震の揺れにも耐えうるU型独立形式の強固な躯体構造を持ち、地震発生時にも確実に水門機能が維持されるよう設計されている。このインフラの更新がシミュレーションモデルに組み込まれた結果、津波の遡上や高潮の侵入を河口という水際で強固にブロックし、弥富市や飛島村、さらには名古屋市西部を含む広大なゼロメートル地帯への無秩序な浸水を大きく食い止める防波堤として機能することが数理的に実証されたのである。
6. 予測モデルに内在する不確実性と技術的課題
津波浸水シミュレーションは最新の流体力学とスーパーコンピュータを駆使した極めて精緻な計算に基づくが、自然界の物理現象の複雑さ、および入力データと計算手法の限界から、無視できない「不確実性」と「技術的限界」を内包している。政策決定者および地域住民は、ハザードマップ等の図面を絶対不変の事実としてではなく、一定の誤差を含む「ひとつの可能性」として相対化して解釈しなければならない。
6.1 波源断層モデルと初期条件の不確実性
まず、シミュレーションの出発点となる南海トラフ巨大地震の「波源(断層)モデル」そのものに決定的な不確実性が存在する。長大な震源域において、どのセグメントが同時に破壊されるか、あるいは東側と西側で時間差を置いて連動破壊されるか(半割れケース)には無数の組み合わせが存在する。また、海溝軸付近で津波を巨大化させる要因となる「分岐断層(スプレー断層)」のすべり量や傾斜角などの特性化についても、海底下の詳細な地質構造が完全に解明されているわけではないため、想定には限界がある。 計算上はこれらをカバーするため、考え得る複数ケース(愛知県の場合は検討された11ケース中、影響の大きい5ケース等)をシミュレーションし、各地点の最大値を重ね合わせてエンベロープ(包絡線)として抽出する安全側のアプローチをとっているが、自然界が想定を上回る挙動を示す可能性(未知の波源特性)を完全に排除することはできない。
6.2 サブグリッドスケールの地形・インフラ表現の限界
メッシュサイズに関する限界も大きな不確実性の要因である。愛知県の陸域シミュレーションでは高解像度の10mメッシュを採用しているが、それでも表現しきれない微細な地形や構造物(サブグリッドスケールの要素)が存在する。
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小規模河川・用水路網の除外:幅10m以上の河川については津波の遡上を計算しているが、幅10m未満の中小河川や農業用水路については計算対象から除外されている。弥富市のような農業地域において、網の目状に走る無数の小水路が津波や氾濫水の伝播経路(バイパス)となる可能性を考えると、実際の浸水域や到達時間はシミュレーションよりもさらに複雑化・迅速化する恐れがある。
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地下空間や管渠の非考慮:シミュレーションは地表面(DEMデータに基づく標高)を基準に行われるため、地下鉄、地下街、下水道管渠などへの水の流入や、そこを通じた地下からの噴出・浸水拡大は計算上考慮されていない。都市部において下水道施設を介した内水氾濫は頻発する現象であり、下水道施設のみでは詳細な浸水状況を再現できないというモデル化の課題が存在する。
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微地形と構造物の動的変化:実際の街並みの凹凸(建物の密集度合い、道路の形状)が津波の流速や水圧をどう局所的に変化させるかまでは完全に再現できない。また、津波来襲中に建物が破壊されて流出する過程や、防潮堤が「滑り台状」に変形・傾斜することで波が這い上がりやすくなる効果など、構造物の動的な形状変化をリアルタイムで追従計算することは極めて困難である。
6.3 漂流物のモデル化の難如
津波被害を甚大化させる要因として、破壊された家屋の残骸、船舶、車両、コンテナ、倒木などが波に乗って内陸に突進する「漂流物」の問題がある。漂流物が建築物に激突することによる破壊力(運動エネルギー)の増大や、橋梁・水門に漂流物が詰まることによるせき止め(それに伴う局所的な異常水位上昇)は、実際の津波災害において頻発する。 しかし、多種多様な漂流物の不規則な形状、力学的衝突過程、および流木等の三次元的な軌跡を流体力学モデルと連成して広域シミュレーションに直接組み込むことは、現在の計算機資源と数理モデリング技術の限界から事実上困難とされている。したがって、ハザードマップに示される浸水深や流速は、漂流物の影響が加味されていない「純粋な流体の挙動」にとどまっていることに留意すべきである。
6.4 ポンプ排水能力と機能継続の現実性
ゼロメートル地帯における長期湛水を防ぐための生命線となるのが、排水機場やポンプ設備の稼働である。洪水浸水想定区域図作成マニュアル等では、シミュレーションにおいて排水ポンプの稼働を考慮する場合、燃料補給体制や操作員のアクセス路確保を踏まえた「排水機能の継続性」に十分留意することが求められている。 しかし、最悪のケースでは愛知県内で最大89%の世帯が停電し、携帯電話基地局の81%が停波、さらには最大19兆円規模の経済被害が発生しインフラが完全に麻痺すると予測されている。震度7の激震と広域液状化の条件下において、ポンプ場が本来の排水能力(例:日光川河口ポンプの100m³/sなど)を維持できるかは極めて不透明である。電源のブラックアウトに加え、操作員の避難・被災、アクセス道路の陥没などが重なれば、人為的な排水活動は長期にわたって機能不全に陥り、想定をはるかに超える水没被害がもたらされるリスクが残存している。
7. 避難計画(ソフト対策)への展開と「社会的妥当性」
こうした絶望的なシミュレーション結果を前にして、政策立案者は科学的知見をどのように社会の減災行動に変換すべきかという課題に直面する。
7.1 「社会的妥当性」と「科学的妥当性」の相克
防災・地震学の専門家からは、シミュレーションの前提となる「千年に一度の最大クラスの地震・津波」という概念の科学的妥当性について、懸念の声も上がっている。科学的な予測の限界を超えた領域において、政府や行政が「命を守るため」という政策的要請に基づいて極端な最悪シナリオを提示することは、科学的確率よりも「社会的妥当性」を優先した結果であると言える。 このアプローチは住民の危機意識を強力に喚起する上で極めて有効である。しかし一方で、弥富市全域が水没するといったあまりにも巨大な被害予測が提示されることで、住民が「何をしても助からない」という運命論的諦観(ファタリズム)に陥り、かえって防災行動を阻害する危険性を孕んでいる。
行政はシミュレーション結果を開示するにとどまらず、個人の行動がいかに生存率を劇的に引き上げるかを定量的に示す必要がある。実際に2026年の愛知県の試算では、全県で最大2万7,000人に達する死者想定も、住民の避難意識が高まり早期避難を徹底することで、死者数を2,900人(約10分の1)まで抑制可能であるというシミュレーション結果も同時に提示されており、個人の行動変容の重要性が裏付けられている。
7.2 水平避難の破綻と「垂直避難」へのパラダイムシフト
弥富市のように、液状化に伴う地盤沈下により津波到達前に河川が氾濫する特異なエリアにおいては、地震動が収まった後に水平方向(高台など遠方の安全地帯)へ徒歩や車で移動するという従来の避難モデルは完全に破綻する。 市が策定する避難計画において、避難開始時間は「昼5分、深夜10分」と設定されているが、地震後の液状化や障害物を考慮した避難歩行速度は、健常者で時速1.38km(秒速0.38m)、高齢者で時速0.69km(秒速0.19m)と極めて低く見積もられている。これは、避難準備に時間を要する夜間に高齢者が徒歩で逃げた場合、到達まで81分あってもわずか1km未満しか進めないことを意味する。しかも、前述の通り津波より先に河川からの浸水が始まり、水深が30cmを超えればその歩行すら不可能になる。
このシミュレーションから導き出される論理的かつ唯一の帰結は、遠方への「水平避難」を断念し、近隣の堅牢な建物の高層階へ直ちに逃げ込む「垂直避難(津波避難ビル等への避難)」への徹底したシフトである。弥富市は津波避難ビルの指定基準として、鉄筋コンクリート造(RC造)または鉄骨鉄筋コンクリート造(SRC造)であり、想定浸水深3.3mを上回る高さ(実質的に2階建て屋上以上)を有し、新耐震基準を満たしていることを厳格に定めている。こうした堅牢な中高層建築物のネットワーク化と、地域住民への周知徹底こそが、シミュレーションが示す致命的な時間的制約を克服する唯一の手段である。
8. 結論
愛知県・弥富市を対象とした南海トラフ巨大地震の津波浸水シミュレーションは、非線形長波方程式と精緻な差分法グリッドに基づく高度な流体力学モデルを基盤としている。特に「震度7の激震と液状化による盛土堤防の75%沈下と即時越流破堤」という極めて厳格かつ悲観的な物理的仮定を組み込んだことで、津波の第一波到達(81分後)を待たずに河川水が流入し、市街地の大部分が急速に水没・長期湛水するというゼロメートル地帯特有の脆弱性が数理的に明確に浮き彫りにされた。
日光川水閘門の耐震改築に代表されるハードウェアの強靭化は、確実な減災効果をもたらしシミュレーション上の浸水面積を半減させることに成功したが、断層モデルの未知性、微細水路や地下インフラの除外、漂流物の非考慮、そして非常時におけるポンプ稼働の不確実性といった技術的限界が依然として残存している。 したがって、シミュレーションが提示する被害予測の数値はあくまで防災計画の「基準」であり、自然の威力の「上限」を保証するものではない。弥富市のような過酷な地形条件下においては、シミュレーションが示す事象の進行速度(津波前の河川氾濫)を不可避の前提とし、発災直後の迅速かつ確実な「垂直避難」を核とする地域社会全体のソフト対策の徹底が、想定される甚大な人的被害を最小化するための最も合理的かつ不可欠なアプローチである。
