
ニッケにお勤めだった川上仁士さんが50年以上前の伊勢湾台風を振り返ったこのお話、胸に迫るものがありますね。
伊勢湾台風の教訓 ~「伊勢湾台風残照」から学ぶ~
序章:忘れられないあの日
今から60年以上も前の、1959年(昭和34年)9月26日。齢を重ねて物忘れが多くなったこの私も、伊勢湾台風のことは不思議なくらい鮮明に覚えてるんだ。いや、忘れられない、と言った方が正しいかもしれないね。
当時は米軍の観測機による情報が、早く正確だったんだ。「これまでにない**『超大型台風』**が26日土曜日の夕方に日本に上陸するらしい」って、3日前にはもう報じられてた。それでも工場は、当日までいつも通り動いてたんだよ。
第一章:想像を超えた猛威 ~「まさか」を疑え~
あの日の夕方、仕事を終えて寮の部屋で同僚と安い酒を飲みながら、ラジオの台風情報を聞いてたんだ。「潮岬に上陸して大垣・岐阜方面に向かうらしい。進路の右側は南風が強く吹くから注意しろ」ってラジオは言ってたね。
正直なところ、俺たちは「またか」って思ってたんだ。今までも『来るぞ来るぞ』と言われた台風は、いつもは逸れて、まともに食らったことはなかったからさ。今回もそうだろうって、心のどこかで高を括ってたんだ。
【教訓1:過去の経験則が通用しない「想定外」に備えろ】 「今回は大丈夫だろう」という慢心は、命取りになる。気象情報が「これまでにない」と警鐘を鳴らした時、その言葉の重みを真剣に受け止めるべきだね。
でも、午後8時を過ぎたころから、様子が急変したんだ。
ドターン! と部屋の壁土が落ちてきた。南側のガラス戸の上部30cmくらいがはがれ飛んでる。壁土を片付けてたら、プツンと停電して、真っ暗闇になったんだ。
当時25歳の青二歳だった俺は、日本毛織弥富工場に勤めてて、男子寮に住んでた。寮は広い10畳間が横にずらっと並んでて、それが何棟も連なる構造。一部屋に4~5人、全部で140人くらいが生活してたんだ。女子寮はもっと大きかったらしいけど、男子禁制で詳細は知らんよ。
俺は当時、労働組合の役員をやらされてた。明日、9月27日の日曜日の午前10時から、組合の最終会議が弥富で開かれることになってたんだ。遠く加古川から来る役員がいるか、それが気になってね。今みたいに新幹線もない時代だから、急行列車で6時間もかかったんだよ。
第二章:暴風の中の決断 ~「情報」と「判断」そして「連携」~
労働会館の様子を見に行こうと部屋を出たんだ。懐中電灯を照らしても真っ暗闇の廊下、50m先を照らすと、驚いたことに暴風とともに廊下全体がしなってるんだ。グラッと10m以上はしなっているように見えたね。
寮から表門まで100mほどの道、庭木や折れ木でなかなか進めない。表門を出たとたん、猛烈な風で足を取られて地面に叩きつけられたんだ。いやもう、痛いのなんのって…。
そこから這うようにして名鉄尾西線の線路を渡り、やっと労働会館に着いたんだ。ニッケ弥富の労働会館は、組合員がお金を出して建てた木造2階建ての建物。2階に上がると、すでに加古川の6人が来てたんだ。後の組合長になる松本さんもいたな。
「えらいことになったな」が挨拶だよ。 「明日の会議はできそうにない」「電話も不通だから他の工場に連絡もできない」なんて話してるうちに、床の間の畳が「ゴボッ・ゴボッ」って音を立てて、風で5cmくらい吹き上がるほどヤバい状態になったんだ。会館の裏は線路、東は田んぼだから、南東からの強風がまともに2階建ての建物にぶち当たってたんだな。これは危険だ!って感じたよ。
【教訓2:命を守る最優先の判断と、臨機応変な対応を】 危険を感じたら、即座に安全な場所へ移動する。建物への固執は禁物。
俺は皆に言ったんだ。「今のうちに平屋の男子寮に行こう。寮の面会室を借りるよう頼むから」ってね。みんなと一緒に寮に行って、寮母さんの了解を得て面会室に案内できたんだ。
【教訓3:情報が途絶えても、組織内の連携と助け合いを諦めるな】 電話が不通でも、集まれる仲間と情報を共有し、次の行動を決める。困っている仲間がいれば、積極的に声をかけ、助けの手を差し伸べる。
部屋に戻った頃には、風は峠を超えたようだった。すっかり疲れて寝床に入ったらバタンキューさ。
第三章:残された爪痕と復旧への道のり ~「想定外」の規模、そして「知恵」と「協力」~
翌日、9月27日の朝、目を覚ますと、昨夜のことが嘘みたいな天気で、静かだった。小鳥のさえずりまで聞こえるんだ。
友人に会うと、「労働会館が水に浸かった」って言うんだ。急いで行ってみると、なんと名鉄尾西線の線路まで水が来てたんだよ。腰まで水に浸かりながら会館まで行くと、玄関のフローリングの上まで水が来てた。建物は壊れてないから、少し安堵したね。
【教訓4:自然災害の「複合的な被害」を覚悟し、備えを怠るな】 強風だけではない、高潮による浸水。目に見える被害だけでなく、水に浸かった建物の内部や、衛生面の問題も考慮する必要がある。
まだ飯前で腹ペコだったから、寮に戻って事情を説明し、加古川の仲間と食堂に向かった。工場の真ん中に通路があって、その両脇にはヒマラヤ杉が植えられてたんだ。丈10m以上、幹元も30cmくらいあって、デカい杉だったんだが、それが全部、頭を北にして根っこを上にして倒れてたんだ。根の張りが小さいとはいえ、台風の威力はすごかったね。
食事後、組合長に会って、昨夜からの経過を話したんだ。組合長は工場の電気ボイラー修繕部の主任で、親分だったから、工場の電気も27日には復旧してた。でも、木曽川を超えた三重方面は、まだ高圧送電線が不通だったらしい。
ともかく組合の役職員は会館に集まって、重要な金庫書類は男子寮に、図書室の本なんかは2階に上げる作業に取り掛かった。9月末だから、みんな海水パンツを履いてたけど、泥水に浸かると本当に涼しいんだ。とりあえず男子寮の図書室が、仮の組合事務所になったんだ。
男子・女子寮だけでも1500人以上の人海戦術で、男性は屋根に上がって瓦修理、女性はゴミ集めなんかをして、午前中には終わったんだ。工場の建物に大きな損壊は見られず、翌日からは稼働できる状態だったんだよ。実際、9月28日と29日の連休以外は、問題なく稼働したんだ。
町の様子が知りたくて自転車で出かけたんだ。表門を出て、砂利道の国道155線を南下する。今の弥生台のあたりは、全部田んぼで、刈り取り前の稲穂が水面下に沈んで見えなかったね。
尾張大橋の手前を左折して鍋田川を超え、木曽岬に入ってしばらく行った堤防で、顔見知りの近藤さんに会ったんだ。家族と家の安否を聞くと、「わしは昨日夜勤で、今朝帰ってみるとあのガレキだ。家族はまだ会えない、あの下かも…」って、指さしたんだ。あまりにお気の毒で、俺は声を失ったね。
後で聞いた話だけど、息子さんは桑名の会社に勤めてて、上司から「早く帰った方がいい」って親切に言われて帰ったのが、裏目に出たらしいんだ。一夜にして家族と家屋を失った近藤さんが、俺の知る人の中では最も気の毒だったね。
ガレキが積み上がった中に、直径1m以上、長さ10mもある大きなラワン材があっちこっちに見えたんだ。飛島村や鍋田地区の海岸には、輸入材のラワンが海水に係留されてたんだ。水を含んだラワンは1本5~6トンにもなって、それが飛島、鍋田、木曽岬の民家を襲ったんだよ。
【教訓5:災害の威力と影響範囲を過小評価するな】 風や雨だけでなく、高潮による思わぬ漂流物が大きな凶器となり、遠方まで被害を拡大させる。
気象庁の当時の記録によると、9月21日にマリアナ諸島あたりで台風が発生して、気圧が1日に91も下がるほど猛烈な勢いで発達し、勢いが衰えないまま潮岬に上陸したんだ。26日午後ごろ大垣あたりに来た時でも、中心気圧は929ヘクトパスカルだった。名古屋港では、最高潮位3.89mを記録。これまでにない国内最大級の高潮を引き起こしたんだ。
高潮は、台風の低気圧で海面が吸い上げられる「吸い上げ効果」と、台風東側の暴風で海水が吹き寄せる「吹き寄せ効果」のダブル効果で、さらに被害を大きくしたんだ。台風後2~3日では、まだ被害の規模はつかめてなかった。どうやら愛知・三重県の海岸部の被害が甚大らしいって話だったね。
新聞も届かなくて、情報はもっぱらNHKの放送だった。ラジオは自分で組み立てたのが部屋にあったし、テレビも集会室にモノクロだけど、わりと早くから置かれてたから重宝したね。
「一週間もすれば水は引くだろう」って思ってたんだけど、報道によれば、意外にも、逆にその年で最も大きな大潮がやって来るってことだったんだ。従業員の安全衛生対策の労使協議が連日行われたよ。
第四章:災害下の助け合いと知恵 ~「自助・共助」の精神と「先見の明」~
当時の台風には、その年に生まれた順に番号や英語の名前が付けられてたね。英語名は全部女性の名前で、これは米軍が「暴れないよう、お手柔らかに…」って願いを込めて付けたらしいんだ。今は英語名はないね。「伊勢湾台風」とかは、特に大型で大きな被害が出た台風に付けられるから、後付けになるんだ。洞爺丸沈没事件もそうだけど、自然現象を甘く見た人為的な事故とも言えるね。
【教訓6:先人たちの「先見の明」に学べ】 日本毛織弥富工場は、建築着工した昭和3年、社長が「万一の事態に備え3尺(約90cm)以上の地盛りを」と提案し、他の役員の反対を押し切って工事をしたんだ。そのおかげで、伊勢湾台風の時、弥富工場の14万坪は助かったんだよ。そのことを新聞が報じて、社長を讃えたことを覚えているね。
【教訓7:平時の備えが、非常時の命運を分ける】 災害が起きる前に、リスクを想定し、事前に対策を講じることの重要性。
台風襲来から4~5日後、工場の表門にボートが6艘置かれてたんだ。これは救難用に千葉県市川市の中山工場から届けられたもの。中山工場の敷地にあった大きな池に浮かんでて、社員の遊覧用だったらしいんだが、これが大いに助かったね。
ボートをリヤカーに乗せて尾西線の水辺まで運んでると、社宅に住んでた伊藤さんが来て、「家内が台風前から江藤外科に入院してて、今日退院するんだけど頼めないか」って言うんだ。二人で行けばいいけど、帰りは3人と荷物があるからボートが重くなる。俺は一人で行って、奥さんを連れてくるから2時間後にここに来てくれって言って、一人でボートを漕ぎ出したんだ。
名鉄尾西線のところからボートを東に向けて進むんだけど、水が濁ってるから道路の境が分からないんだ。ボートは後ろ向きに進むからややこしい。家並と電柱を頼りに漕いでるうちに、舟底がザーザーと鳴って急ブレーキ。見たら刈り取り前の稲穂の上にボートがあるじゃないか。通路から外れてたんだ。
進路を修正して、今の早川電気店を右折、近鉄線の線路を左折して、国鉄弥富駅に着いた。なるほど「日本一低い駅」だ。プラットホームまで水があったね。ボートはさらに東へ300mほど進め、右に折れて近鉄線を超え、江藤外科に着いたんだ。伊藤さんの奥さんに会って、本人と荷物をボートに乗せた。帰り道は近鉄線のプラットホームを通り、国鉄弥富駅から尾西線沿いの道を帰って、無事奥さんを送り届けたよ。
【教訓8:被災時における「共助」の力】 普段は遠く離れた別の工場から物資が届いたり、個人的な困りごとにも助け合いの精神が発揮されたりする。地域や組織を超えた助け合いが、困難な状況を乗り越える力になる。
10月初め頃、工場従業員全員に長靴が配給されたんだ。破傷風の予防だよ。予報通り大潮がやって来て、長靴の半分くらいまで水が来たんだ。そこら辺に金魚が泳いでて、買えば高い大きなメタボ金魚ほど捕まえやすい。5匹ほどバケツで飼ってたんだけど、餌がない社宅の人にあげてしまったね。
第五章:泥と汗と絆 ~「復旧」は「人」の力~
大潮がやってくる頃には、本社から屈強な男7人の助っ人が来てくれた。いずれも本社支部の組合役員の顔なじみの面々さ。それぞれ休みを取って、今でいうボランティアで来てくれたんだ。
当時ウール製品は高価なもので、ウールメーカーに勤めてても手の届かない代物だった。原料は羊の毛で、主にオーストラリアやニュージーランドから輸入されてたんだ。1ドル360円で、限られた枠での貴重な外貨での買い物だった代物だよ。
工場の最初の部署、毛選部の2階で産地別・品種別・部位別に選別して、1階の仕切られた部屋に落とす構造になってたんだ。その貯毛室(ウールビン)の底10cmほど水が来たから、全工場から応援を出すことになったんだ。各人半日交代で行くことになったね。
何ヶ所かパーテーションで分けられた貯毛室に行くと、10坪くらいの広さで、選別された原毛が3~5mくらいバラ積みされてる。上部の乾いた原毛は大きな麻袋に入れ直して、ロットごとに別の倉庫に積み直す。問題は、最下部の水に浸かった10cmほどが発酵して40℃くらい熱を持ってることなんだ。この水濡れして重くなった原毛を、早く洗って乾燥させないと、繊維が劣化して大損害になる。緊急を要する作業だったんだ。
水濡れした原毛は、底から30cm以上水分を含んで重いんだ。乾いた毛なら両手を広げてガバッと20kgくらいは持ち上げられるんだけど、湿った原毛はせいぜい5kgくらいしか持ち上げられない。作業は中腰で前かがみの格好でやるから腰が痛くてね。時々背伸びしないと倒れてしまうほどだった。こんな作業は半日が限度だったね。
水濡れ毛をトロッコに山積みして、隣の洗毛工場に運ぶんだ。これを洗ってすすいで絞るのを何回も繰り返し、最後は乾燥させる…。この工程を自動的に行う洗毛機にかけると、土砂や糞尿で汚れた茶色い原毛が、真っ白なウールの原料になるんだよ。
そんな辛い作業をやってるところから、「おい、ジンちゃん」って声をかけられたんだ。振り返ると神戸からの助っ人、焼さんと川村さんの2人。2人とも俺より7歳ほど年上だったな。焼さんは後に組合長を務めた人で、ベストセラーになった『人間の条件』の著者、五味川純平氏と軍隊時代に中国で同じ中隊だったという経歴の持ち主だったんだ。「本の主人公・梶そっくりの良い奴だった」って聞いたね。川村さんはお父さんが芦田内閣総理大臣の同僚で、その御曹司。二人とも付き合いが長かったんだ。
24年前の神戸大震災で、ともに西宮と芦屋の自宅が全壊したんだが、苦労して再建されて、ホッとしたのか、10年ほど前に亡くなられたね。
本社での仕事は事務方なのに、慣れないキツイ・キタナイ・キケンな3Kの仕事。一週間の予定が二週間も滞在してくれたんだ。感謝、感謝だよ。
第六章:情報網と広がる被害 ~「情報の共有」と「生命の尊厳」~
10月28日にニッケ労組の中央委員会が、千葉の中山工場で開かれるって通知が来たんだ。名古屋まで行くのに、近鉄も国鉄も線路が水没して不通。尾張大橋のふもとから桑名駅までバスの臨時便が出てるってことだったんで、桑名から養老線で大垣へ行って、そこから東京に行くことにしたんだ。
バスで尾張大橋を渡って長島に入ると、1号線はなんとか通行できた。南方に見える状況は、弥富よりも悲惨だったね。バスから50mほど南に異様なものが見えたんだ。遺体のガスで象のように膨らんだ牛が、四つ足を天に向けて倒れてた。遠くの方にも同じように足を天に向けた牛の死体が見えたよ。
【教訓9:災害のリアルな状況を把握し、冷静に情報を共有せよ】 情報網が遮断されても、可能な限り状況を確認し、関係者間で共有する。そして、目を背けたくなるような現実から目をそらさない。
中山工場での中央委員会は、さながら伊勢湾台風被害対策の協議会となったね。冒頭、日毛労連会長の岡本氏から報告があったんだ。台風直後に弥富に行って10日ほど滞在し、組合長と共に工場内外の状況を把握して陣頭指揮したんだと。傘下の各組合には、弥富の被災者への救済義援金を募るよう依頼した旨も報告された。
次いで、弥富の佃組合長から、要旨次のような挨拶があったんだ。
- 組合員の被災状況:
- 死亡者:木曽岬村の佐藤さん(29歳)1名。
- 家族の死亡者:佐藤さんの父母子2人(妻のみ生存)、近藤正堅さん(生存、木曽岬村)の妻子5人全員、半田正行さん(生存、弥富町)の母と娘3人。
- 組合員一人家族死亡者を含む合計13名が死亡。
- 住宅の被害:全壊3棟、半壊14棟、冠水3棟。
- 避難民の収容:
- 水のため家を失った町民は、弥富中学校など数ヶ所に収容されてたんだが、町役場からの強い要請もあり、300名近い避難民を幼稚園、卓球室、会議室などに収容。長期収容の家族用仮設住宅も10戸建設中だった。
- さらに一宮工場にお願いして、合計218名が転居したんだ。輸送には自衛隊や米軍のヘリコプターも使われた。
- 防疫関係:
- 赤痢予防薬が全従業員と家族に配布され、消毒も徹底された。医局の医師や看護師による被災者の検診で、一人も罹患者が出なかったのは本当に幸いだった。
- 義援金と救援物資:
- 日毛労連と傘下の組合から合計64万8千360円、金繊維同盟傘下の組合から合計25万7千750円、合計90万6千110円の義援金と衣料品6千着が届けられたんだ。
- 労働会館の状況:
- 弥富の労働会館はまだ水に浸かってフローリングがめくれ上がり、改修の目途が立たない状態。でも、次の委員会が弥富でできるよう頑張るって話だったね。
【教訓10:命と安全を守るための徹底した対策と支援】 広域的な連携による支援物資の調達、避難場所の確保、そして何よりも感染症対策など、被災者の生命と健康を守るための多角的な取り組みが重要。
これは佃組合長の報告と謝礼の概要だよ。(1967年発行の日本毛織労働組合20年史に詳しい。その20年史を編集した大西正一氏と、元組合長の佃毒一氏も、昨年2018年に亡くなられたよ。)
今まで通勤従業員で、被害にあった人の実話を聞こうと探したんだけど、ほとんど亡くなってしまって見つからなかった。そんな中で連邦さん(90歳)に会うことができたんだ。
彼によると、「台風当日、午後10時上がりで終業時まで停電することなく仕事を終えて帰路に就いた。自宅は弥富神社の東300mにあり、普段自転車で10分で帰れるところを、暴風が強くて乗ることができない。這うように40分もかけてやっと家に着いた。我が家も近所も真っ暗で停電、ラジオも聞けない。残り物を食べて布団をかぶるが、なかなか眠れない。夜中12時半ごろか、縁の下から『ブクブク…』と変な音がする。起きて玄関を開けると、そこまで水が来て、だんだん上がってくるようだった。荷物を高いところに上げ、貴重品をまとめ、妻と幼い子供はハシゴで屋根に上げた。風はだいぶおとなしくなったけど、真っ暗闇は朝が待ち遠しかった」って話してくれたね。
朝5時半ごろ、近くの人が農耕用の舟でやって来て、乗せてもらい、ニッケグランド近くまで運んでくれたんだ。そこで偶然上司の尾藤さんに会い、事情を話したら、「どこか宿泊できるところを確保するから、家族全部連れてこい」って言ってくれたんだ。
通勤者の避難場所に決まったのは、社宅近くの幼稚園。大きな和室と洋間があって、普段は園児50人くらいが入る幼稚園として使われてたんだが、夕方は各部の飲み会やバンドの練習など、多目的に使われた施設だった。一晩なら40~50人は収容できる。連邦さんの家族が被災者収容の第一号だった。
台風による土日の休日を挟んで安否不明で連絡の取りようもなく、30日の出勤日になってようやく全容がわかったんだ。ところが、一週間で避難所は満杯になって、従業員を残して家族は一宮工場の施設に行くことになった。これには学校の事情もある。弥富の小学校も中学校も水浸しで、授業ができる状態じゃなかったんだ。
組合から見舞金を2~3回で合計5万円もらったんだ。当時フランク永井が歌う「有楽町で逢いましょう」じゃないけど、初任給が1万3千8百円だった時代に、手取り月1万円くらいだとすれば、5万円は給料5ヶ月分のおもわぬ大金。本当にありがたかったね。また会社からニッケ毛布30枚を渡されて、近所の被災者に配ったんだ。衣料品も俺たち被災者が、近所の人に手渡しして喜ばれたよ。
第七章:災害大国日本の宿命 ~「忘却」と「進化」そして「未来への備え」~
古くから「地震・雷・火事・親父」と言われて恐れられたが、近頃オヤジ族はすっかり劣化して恐れるに足りないな。雪もたまにゴルフ場での事故が報じられるけど、被害は少ない。火事も防火意識が向上して、戦時中のような焼夷弾爆撃もない今日では、昔ほどじゃないね。
でも、北南米、オーストラリア、ヨーロッパ、シベリアでも、地球温暖化による異常乾燥で山火事が多発して、社会問題になってるね。2019年9月に国連で気候サミットが行われて、スウェーデンの環境活動家グレタさん(16歳)が、涙ながらの演説で世界の共感を得たね。しかし日本に対しては厳しい視線が寄せられ、「化石賞」なるものが与えられた。「化石」は化石燃料を示すとともに、化石のような古い考え方との揶揄を指すんだ。日本はCOP5で初受賞して、二度も不名誉な受賞をしているね。安倍総理はパリ協定脱退表明のトランプ大統領に忖度してか黙して語らず、担当の小泉環境相は安倍総理に忖度し沈黙。これでは忖度が「損多」になりかねんよ。
伊勢湾台風があった1959年、11月末になってやっと水が引き始め、JR関西線は開通したが、近鉄は不通だった。これは近鉄名古屋線の名古屋~中川間のみが狭軌で、他は全線広軌という変則路線だったから、線路の幅が違うため乗り換えを要したんだ。水が引いた機会に、名古屋線全線広軌化工事がされて、これによって名古屋~大阪までノンストップで行けるようになり、便利になったんだよ。
国道1号線は水が浸かったままで、救援トラックが通れない。当時の建設省がとった工事は、全国からドラム缶をかき集めて道路の左右に並べ、コンクリートで固め、土砂を入れてアスファルトで仕上げる…いわゆるドラム缶工法がされたんだ。この辺り1号線の南北に交差してる道を通ると、1mほど上がり道路を過ぎて下がる構造で、ドラム缶が埋まってることを知ってる人は少ないね。
【教訓11:大規模災害からの復旧は、既存インフラの脆弱性を露呈させる。対策は革新的発想で】 通行不能になった道路を「ドラム缶工法」で早期復旧させた事例は、非常時の創意工夫の重要性を示している。
台風後、12月初め頃だったか、天気の良い日にこの辺り一帯に、異臭と煙が立ち込めたんだ。当時見た人の話を思い起こすと、行方不明者の多くの人がラワン材やガレキの水中にあって、建設重機の助けを借りないと作業ができない状態だったんだ。すでに2ヶ月も経って腐乱化し、遺体がどこの誰か特定できない状態。まるで地獄絵を見る有様だったとか。この近くでは、尾張大橋の手前、現在のグランドあたりから鍋田川、木曽岬、長島の海抜ゼロメートル地帯での火葬が、異臭と煙の原因だったんだ。
伊勢湾台風の犠牲者は5098人(弥富では358人)、多くは愛知・三重・名古屋の沿岸部の人々だった。当時、被災地の水が引いても、元の生活には戻れなかったんだ。当時、水道はあってもごく一部で、海抜ゼロメートル地帯の大部分は井戸水の時代だった。床下浸水すると、井戸とトイレの便槽が混ざり合い、飲料水には使えないんだ。
ニッケには浄水設備があり、電気も正常に通じてたから、フル稼働したね。運搬は自衛隊が担当して、運搬船で木曽川を通じて、近隣はもちろん名古屋市南部までピストン輸送してくれたんだ。これを水道が修復するまで、半年以上自衛隊が常駐してくれたんだよ。
【教訓12:公衆衛生対策と水の確保は、二次災害を防ぐ要】 断水や汚染された水は、生活再建を阻害し、感染症のリスクを高める。清潔な水の供給と衛生管理は、復旧の最優先事項。
日本は台風大国で毎年やってきて甚大な被害に苦しめられるが、大きな台風ほど3日以上前には予知がされ、心構えができる。だが地震は、現在の知見では予知はできないんだ。政府の地震調査研究推進本部は、南海トラフ巨大地震が、今後30年以内に起きる可能性が80%と発表しているね。俺たち同世代には、阪神淡路大震災と東日本大震災がテレビ映像を通じて記憶に新しい。やはり地震は恐ろしいよ。
岐阜・愛知地方は120年前の濃尾大地震(7200人死亡)以来、大地震には幸いにして見舞われていない。だが太平洋プレートの沈み込みの歪みが溜まっており、いつ破断して大地震が起きてもおかしくない怖さもあるんだ。
最後に弥生台の成り立ちについて触れておこう。伊勢湾台風の3~4年後、工場南の小島地区の田んぼで、30cmのホースが5~6本引かれ、木曽川の土砂を水と共にポンプアップ工法で、約1m地上げしてできたのが弥生台なんだ。伊勢湾台風以後現在までに1m以上地盤沈下したとされてる。当時の浸水に沈下分を加算して、三角公園などに表示されてるんだよ。
もし大地震が起きて大津波が来たら、ラワン材に代わって、コンテナと自動車の大群が押し寄せるに違いないね。
終章:忘れてはならない教訓と残る温かさ
物理学者の寺田寅彦は、「災害は忘れた頃にやってくる」と言葉を残したね。十年一昔というが、伊勢湾台風は60年以上も前の大昔の出来事だ。周りを見ても、当時を知る人は少なくなり、この弥生台でニッケのOBが二人いたのが、生き残っているのは俺一人になってしまった。だから、備忘録としてこれを記したんだ。
冷酷な台風だったが、俺の心には温かいものが残り、忘れられないね。
このお話から、私たちは何を感じ、何を学ぶべきでしょうか?